LOGIN「お前がいながらなんてザマだ!」
「……申し訳ありません」 「もういい。自分の持ち場に戻れ」 「はい。失礼します……じゃあな、小手毬」 幸い、すぐに意識を取り戻した小手毬は何事もなかったかのように微笑んで蘭子を見送ったが、先ほどまで子どもにしか見えなかった彼女が一気に老け込んだような豹変ぶりに蘭子の方が驚き逃げるように去ってしまった。 彼女と入れ替わりに病室に入ってきた陸奥は、状況がわからないものの、自由を追い払ってから棚や床に散らばる真っ赤なバラの花弁を拾いはじめる。 小手毬は横になった状態で自由に向けて手「――来ると、思ったわ」 「なぜ、ここに」 遠くから見てもわかる美貌は、涼しげな美人と言われる天よりも鋭く、冷ややかですらあった。天が子どもの頃から変わらない化け物じみた美しい女性は、驚く天の前で、くすくす笑う。「ここはね、ユキノジョーが残してくれた、あたくしだけの場所。ランコですら知らない、隠された遺産のひとつ」 「……ひとつ、ということはまだ、隠されているものがあるわけ」 「そう。貴女が唆しておかしくなっちゃったあたくしの息子とか」 「やっぱり」 自由の行方については特に心配していなかった。諸見里の家に戻るか、彼女に匿ってもらうか、そのくらいしか選択肢がないと思ったからだ。「けど、心外ですね。ジユウがおかしくなったのは私のせいじゃないですよ」 「もともと、と言いたいのかしら。おかしいのはコデマリちゃんだけでよかったのに」 ふふふ、と少女のように微笑む年上の女性を前に、天は訊ねる。「“諸神”の“女神”の欠けた“器”……雛菊さんは」 「いまのあたくしは菊花。諸見里雛菊は死んだことになっているわ」 「そうでしたね、亜桜菊花さん」 たんたんと診療を行うように言葉を並べる天にじろりと睨まれても、菊花は動じない。面白がるように彼女に近づき、細い指で顎を掴む。「な」 「ひづるちゃん」 「……やめてください」 「アカネの家から貴女が出ていったと知ったときは、拍手喝采だったけど。けっきょく情を捨て去ることはできなかったのね。残念だわ」 「き」 「しょせん、あの狸の娘でしかなかったのね。コデマリを生け贄に、すべてをなかったことにしようとして。いけない子」 「じゃあ、どうすればよかったんですか……っ!」 この土地に脈々と連なる因習は、肌から離れない。“女神”に糾弾されて、天の瞳から光が消える。「茜里の鍵を渡しなさい……そう、いい子ね。それから、あたくしの可愛い子どもたちのことはもう、放っておきなさい。貴女の役割は、不要よ」
陸奥が意外そうに声を荒げたのを見て、加藤木は面倒くさそうに答える。「赤根一族は“諸神信仰”については受け入れているけれど、彼らのなかでも意見が分かれているのよ。桜庭蘭子が亜桜家を切り捨てたことからでも理解できるように、“器”に精を注いで神を降ろすことが一族の繁栄に繋がると素直に信じている人間の方が少ないわ。茜里病院の院長や瀬尾は狂信的なまでに“諸神”を求めているみたいだけど」 「それが嫌で楢篠先生は実家から飛び出したってことか」 狸と呼ばれている茜里病院の院長は楢篠天の父親でもある。本来なら従弟の雨龍と結婚し、この病院を引き継ぐことになっていたという。だが、本妻とは別に“女神”の“器”に子を孕ませようと画策する彼らを受け入れられず、自分を必要としている楢篠健太郎のもとへ飛び込んでいったのだ。 娘に裏切られた狸だが、それならば雨龍に“女神”の“器”を娶らせようと考えたらしい。瀬尾は狸の命令に従い、小手毬を自分達の病院へと転院させたというのが真実らしい。「それだけでもなさそうだけどね」 「と、いうのは?」 小手毬と日常的に会話をしている加藤木は、この数ヵ月でずいぶんと情報を手に入れたらしい。陸奥が知らないことを当然のようにぺらぺら喋る加藤木を見ていると、このことを良く思わない何者かに刺されてしまうのではないかと心配になってしまう。「前の女神――桜庭雪之丞が諸見里から奪ったという亜桜雛菊、通称“菊花”は、小手毬以外にもうひとり、子どもを産んだとされている」 「諸見里」 陸奥の声が冷ややかになる。すべてを放り出して姿を消した若きエリート医師の姿が、脳裡に浮かぶ。 小手毬が「ジユウお兄ちゃんだけはダメ!」と拒絶した理由。 すべてが繋がる。 そうか、やはり、あのふたりは――……。「陸奥センセの想像通り。ジユウくんの、産みの母もまた、“女神”だった、ってわけ」 * * * 定時の合図とともに白衣を脱いだ楢篠天は、ようやく沈み出した夏の西陽から逃れるように病院の裏口から
諸見里自由が姿を消したことは、茜里病院に滞在している陸奥と加藤木のもとにも伝えられていた。 だが、彼がその後どうしているかは赤根一族のネットワークを駆使しても把握できずにいるのだという。自由の実家である諸見里一族が彼を隠している可能性もあったが、部外者である加藤木がこっそり彼らとコンタクトを取ったところ、自由が姿を消したことすら知らずにいたのだとか。 辞表を提出し、周囲に引き留められながらも彼は潔く職場を去ったと早咲は言っていたが、実際のところはどうだったのだろう。加藤木はうーんと考えながら小声で囁く。「楢篠先生は素知らぬ顔してましたけど、彼女くらいしか彼を焚きつけるひといませんからねえ」 「……そうだな」 自由の失踪は小手毬のもとにも知らされた。心配するかと思いきや、彼女は「これで安心して“器”になれる」と言い出す始末。 そんな彼女は病室で瀬尾の医療行為を受けているところだ。彼は包帯や道具を使って小手毬の身体を開発するのだという。想像するだけでもおぞましい話だが、彼女は無邪気に報告してくるのだから質が悪い。「変態的な瀬尾先生と、薬で簡単に済ませる無機質な赤根先生と、コデマリがジユウくんの代わりにしている陸奥センセ……ほんと不憫だわ」 小手毬から報告を聞いているという加藤木は、陸奥を自由の代わりにして慰めてもらっているのだろうと理解した。そう言われて、はじめて陸奥は彼女が誰よりも自由を求めていることに気づいたのだ。「やっぱり――この病院はおかしいな」 「今になってそれを言いますか」 「ああ。俺も危うく……毒されるところだった」 すでに小手毬は交通事故の後遺症もほとんどない。陸奥が痛み止めを処方する頻度も少なくなった。 本来なら退院して通院させればいいものを、茜里第二病院などという小手毬以外患者の存在しない閉鎖された病棟に、彼女は保護されたままだ。そのうえ、医療行為と称した不埒な行いを嬉々として受け入れている。これのどこがおかしくないと言えよう。「保護しているというより、監禁している、って感じですかねぇ」 「それでも彼女が受け入れている
薄暗い病室のベッドに横たわる小手毬は、悔しそうに顔を歪めている陸奥を前に妖艶に笑う。「あなたなしじゃ、いられないの。その意味がわかった、でしょう?」 彼女はハダカだった。白いベッドシーツの上で、自慰をしていた。「だから、死にたがっていたのか……?」 「だって、ジユウお兄ちゃんとケッコン、できないんだもの」 転院してから小手毬は瀬尾や雨龍による不埒な医療行為を受けていた。オンナとしての身体を最大限活かすため、“女神”として快楽に怯えず、誰からも与えられる悦楽を享受するため。 陸奥ははじめその役目を拒もうとした。けれど小手毬に止められて、ずるずると週に一度の逢瀬を繰り返している。 それでも意地を張り、陸奥から小手毬にふれることはない。 彼女に命じられて、ようやく愛撫を行っている形だ。「セオはあたしの身体を好き勝手弄るのに、ミチノクはそういうことしないんだね」 「ガキの身体には興味ないって言ってるだろ」 「これでも十九歳になったのに」 ぷう、と頬を膨らませて小手毬は彼の手を己の胸元へ導いていく。「揉んで。いつものように……ふふ、もっとちからを入れても大丈夫だよ。ねぇ、赤い実を食べて。あなたの舌で、あたしをイかせて?」 「……どこで覚えたんだよ、そんなこと」 「ヤキモチ? 心配しないで。女神さまはみんなに優しいから」 小手毬が「女神さま」とうっとりした表情で呟くのを見ると、ゾクゾクとしたものが背筋を走る。彼女はあくまで“器”で、女神そのものではないという。けれど陸奥からすれば、ベッドの上で美しく乱れる彼女の方が、人間離れしている存在だ。ついこのあいだまで無垢な少女だったとは思えない色気を纏って、誘惑を繰り返す。 抗おうとしても、手遅れだった。 小手毬はほかの人間に見せることのない、妖艶な姿で、陸奥の劣情を掻き立てていく。「痛かったら言えよ」 「すこしくらい痛い方がイイ……ッ」 カリッ、と胸の蕾を齧られて、小手毬は身体をのけぞらせる。陸奥に噛まれた尖端は、じくじくと
陸奥はバカバカしいと抵抗していたが、小手毬が駄々をこねたとかで、十日に一回ほど、彼は小手毬の病室で初心な身体に快楽を教えているらしい。彼のことだから本気になることはないだろうが、罪深い役回りである。「陸奥先生はコデマリに優しい?」 「たぶん。ときどき意地悪する、けど」 転院当初よりも女性らしくなった小手毬を見て、加藤木は何も言えなくなる。幼馴染に叶わぬ恋をしながら、ほかの男に身体を捧げなくてはならない“女神”の“器”。最後まではしていないというが、小手毬は男性医師たちの手で確実に女としての悦びを教えられている。あくまで医療行為だと、陸奥だけは言い訳していたが、もはや逃れられないと悟ったのか、近頃は小手毬に対する態度を和らげている。 いまだけの歪んだ関係。 それでもこのことを自由が知ったら発狂するだろう。「だけど、ミチノクは“器”の適合者じゃないから、それ以上のことはできないよ。いまだってお薬や道具を使って身体反応を観測することが多いし。ウリュウなら直接関係を持っても問題ないって言われてたけど」「直接、ってそれはそれであからさますぎるわ」 加藤木は非科学的なことを平然と口にする小手毬に辟易してしまう。けれど生まれた頃からそれが当たり前のものであると刷り込まれている彼女からすると、この土地へ外から入ってきた加藤木や陸奥の方が異質な存在なのだろう。 この地域特有の信仰として、“諸神”の存在はいまも密かに語り継がれていた。それを商売道具へ変換させたのが桜庭雪之丞と、彼に金で服従した亜桜の一族だ。もともと神社を管理していた亜桜の人間は“巫”としての素質があったため、氏神をその身に降ろすことができたという。いつしかそれが、一族の女のみにしか受け継がれなくなり、その特別な女性を“女神”と呼ぶようになった。だが、“女神”は選ばれた男の精を受ける“器”としての役割が課されている。小手毬はその男と娶せられる運命を背負っている。 赤根一族は雨龍にその役目を負わせようとしているのだと本人が言っていた。けれども雨龍にその気はないという。 加藤木は誰が小手毬を狙っているのか、すべてを把握しきれていない。「ジユウお兄ちゃ
季節は八月の終わりを迎えようとしている。小手毬は十九歳になっていた。 小手毬が茜里第二病院へ転院してから、すでに三ヶ月。転院してすぐは異なる環境に馴れることができず、病室で寝てばかりいた小手毬だったが、真夏の暑さが和らいできた最近は病室で瀬尾や雨龍と過ごすだけでなく加藤木とともにリハビリと称して車椅子から降りて病棟内を散策したり、病院の周辺の裏庭を散歩したりと、少しずつだが身体を動かしはじめている。「あ、赤とんぼ」 「山の方だからもう飛んでいるのだね。アキアカネかな」 「アキ、アカネ」 赤根一族の「秋」によって設えられたこの病院は、小手毬を閉じ込めるための虫籠のようだと、加藤木は苦笑する。外界との接触を絶たれた彼女は、この異質な状況をおかしいと訴えることもせず、いまも無邪気にとんぼを目で追いかけている。 転院初日に身体検査を行って以来、陸奥は茜里第一病院へ出向を命じられ、第二に顔を出すのは十日に一度ほどになっていた。 その代わり。「ウリュウ、先生が教えてくれたの。とんぼの生殖行為について。とんぼは一匹のメスをたくさんのオスが追いかけまわして、そのうちの一匹がメスに子種を注いでも、ほかのオスがメスを奪ったらすべて掻き出されて、新たな子種を注いでいくんだって……どのオスも必死になってメスのなかに子種を残そうとする、子孫を残す、そのために」 赤根雨龍という男が、小手毬の専属医として新たに加わった。 下手すると陸奥よりも若く見える青年だが、この病院の後継ぎだということもあり、病院内外の情報にも詳しい。加藤木はそこで、一族から飛び出し雨龍との結婚を拒んだという楢篠天のことや、赤根一族と諸見里本家の確執を知ることになった。 旧くから伝わる“諸神”の真実も。 ――飄々としていて油断ならない不思議な男だったわ。楢篠先生が男だったらきっとこんな感じ……そりゃそうか、ふたりは従姉弟だって言ってたし。「あの食えない先生ね。可愛いコデマリにしょーもないことばっかり教えやがって……」 「だけど、わたしの身体が元に戻ったら、とんぼのメスになるのは本
* * * 高次脳機能障害、というのだそうだ。 小手毬は早咲の説明を耳元に留めつつも、ふわぁあと大きなあくびを零してしまう。「脳内にある血管に障害が起きたり、頭部に外傷を負った際の脳損傷が起因? しているんだっけ」 「そうだよ。あなたの場合、事故で頭を強くぶつけたことが原因になる」 「うん」 「ときにそれは神経・知的機能障害と呼ばれることもあるし、ひとによっては記憶障害・注意障害・遂行機能障害・社会的行動障害なんてものがついてくることもある」
* * * 「ふぅん。それで、キミはどう思ったんだい?」 「どうにもこうにも。オレはあくまで看護師であって、医者ではないからなんとも」 「医者である私がいいと言ってるんだ。言いなさい」 「天は強引だなぁ」 病院内の食堂で、ピンクの白衣を着た女医と、看護師の男性が並んでいる。ふたりの名札には「楢篠」の文字。彼らが夫婦であることは周知の事実だ。 今日の定食のおかずであるブリの照り焼きに箸をつけながら、楢篠天ははぁと溜め息をつく。 病院というのは意外と出会いの少ない職場
「ええ。五月から外来棟を中心に、今は整形にいます」 たいしたことではないと、自由は告げる。「外科系スーパーローテートか」 だが、陸奥からすれば、彼の選択は自己満足でしかないように思える。 二年間、各科で研修を積んで、彼はどの専門分野に進むのだろう。早咲と同じ脳神経外科か、それとも俺と同じ…… 「将来のことはわかりません。ただ、僕は小手毬を救いたい」 少女のためなら、他の患者の命すら投げそうな危うさが、陸奥を震撼させる。そして。 「……バカだな」
身体を傾けた小手毬を守るように、陸奥が動いていた。 「――危ねえな」 「ミチノク……」 「無理するな、って言ってるのにこれかよ」 「……近い、よ」 「その前に言う言葉があるだろ」 無様に床に倒れ込むと思っていたのに、素早く前に現れた陸奥が小手毬の身体を抱きとめて毒づいている。 白衣を着た彼に抱きしめられた小手毬は心臓が暴れているのに気がつかないふりをする。 「……ごめんなさい」 「違う」「え」